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On the Day Project 1st March / RUNIT dome

On the Day Project 1st March / RUNIT dome
a view of RUNIT Dome

2006/12/03

No.22 オンザデイ・ルニットの背景:第五福竜丸50周年








2004年3月6日、マーシャルからの帰路グアムで一泊し、翌朝関空へ向かう中ハシと別れた。
それから4ヵ月、7月はじめ、東京・江東区夢の島公園にある第五福竜丸展示館では、Collapsing Histories展の会場準備が進んでいた。
彼と再会したのは、ここ第五福竜丸展示館。Collapsing Histories展の会期前だったが、すでに展示館ボランティアが中心になり、第五福竜丸の横でルニットドームを写した写真を繋ぐ作業が始まっていた。

その作業を見守る木造のマグロ漁船。ビキニ環礁での核実験の死の灰を浴びた第五福竜丸の事を少し話そう・・・・。


1954年3月1日、静岡県焼津港からマグロを追ってマーシャル諸島近海で操業していた第五福竜丸がビキニ環礁での史上最大の水爆実験「ブラボー」に遭遇した。
ヒロシマの千倍:15メガトン規模の爆発により実験域の珊瑚礁は粉砕され放射能とともに上空高く巻き上げられた。その粉末が指定危険海域を越えて雪のように降り落ちた。

・・・死の灰である。

その結果実験場の隣、避難指示の無かったロンゲラップ環礁の住民が被曝し、そして危険海域外でマグロを獲っていた第五福竜丸の乗組員26名全員も被曝した。


核実験、特に史上最大規模の水爆実験という米軍の最高機密に触れた彼らは危険を感じ、また放射能による健康被害の症状を抱えながら、一切の交信を断ち、ひっそりと焼津港に戻った。

日本では彼らの姿に騒然となり、新聞のスクープの末、ビキニ事件として公になった。そして通信士久保山愛吉は、入院闘病の末、急性原爆症で帰らぬ人となった。

ヒロシマ、ナガサキに続くビキニ事件での一般市民の核による犠牲は、世界に核と放射能の実態を知らせた。
そして、軍拡と核の拡大に警鐘を唱えた翌年の「ラッセル・アインシュタイン宣言」にも取り上げられ、世界的な反核平和運動のきっかけとなった。
久保山愛吉の残した「原水爆の被害者は私を最後にして欲しい・・」の言葉とともに。


このビキニ事件から13年、「はやぶさ丸」と名を替え東京水産大学の練習船として使われてきた第五福竜丸は廃船となり、夢の島に捨てられていた。
この船体を市民が発見し保存運動が湧き上がり、夢の島に修復展示されることになった。
現在は都の公園となった江東区夢の島公園の一角につくられた展示館で第五福竜丸は保存展示されている。


2004年、アーロン・カーナーのキュレーションによる歴史とその継承をテーマにしたCollapsing Histories(崩れゆく歴史)展は、この第五福竜丸が体験した核軍拡時代の象徴であるビキニ事件から50周年を記念して開催された。
そして中ハシ克シゲのOn The Day Project 1st March/RUNITは、戦争と核の時代:20世紀を象徴する核実験の遺物をテーマに、その歴史に向き合う参加型のアートプロジェクトだった。

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Photo and Text by nnogci