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On the Day Project 1st March / RUNIT dome

On the Day Project 1st March / RUNIT dome
a view of RUNIT Dome

2006/11/16

No.20 ルニットからの帰り路、沈船(座礁船)を見る


ルニットドームでの取材を終えたその日の夜、突然嵐がやって来た。日中の天気からは想像もつかない雨と風の中、われわれはテントで小さくなっていたが、仕事を終えた後で良かったと、全員が思った。



ルニットへ来る前、エニウェトクのDOEダイニングの壁に気になるカードが貼られていた。何年か前の新年のカードだったが、絵柄の船の写真は船体を傾けて、明らかに座礁しているようだった。また、教会の隣のカフェの壁にも、その写真が貼られていたが、それについて尋ねたが明確な答えはもらえなかった。ただ、このラグーンの海に沈んでいる事は間違いなかった。

そして、エニウェトクからルニットを目指すボートから、遠くにこの船らしい影を確認していた。


この3月2日は昨夜から続いて雲が低く雨も降っていたが、エニウェトクへの帰路、この船を見る事にした。
ボートがスピードを上げると雨が顔に痛い。しばらく行くと前方遠くの水平線に船影が見えて来た、近づくとあの船だ。


あのカードの写真のように茶色の影が左に傾いている。ボートは船尾から近づいていた。貨物船だろうか、船尾寄りに艦橋がある。かなり大きな船だ。
船体に触れようとするが、波があってなかなか近づけない。


丸い船尾の下の水面を見ると、何とも言えないエメラルド色の水だ。

あふれる太陽の光はないが、厚い雲を通って来た少ない光の元でも輝くエメラルドの水の色、浅い海の底は白い砂のようだ。


船に付けることはあきらめて、周囲を回る。左舷は、こちらを向けて傾き、波が甲板を洗っている。平らな甲板には小屋のようなものがある。

やはり貨物船のようだがなぜこんなところに沈んでいるのだろう?。


船首を回り右舷へ出ると船体の表面の一部がザラついた質感の部分があった。線状の赤いものが交差している。

当たり前に鋼鉄製の船だとばかり思っていたのだが、鉄筋コンクリート製の船だった。

コンクリートが剥がれ、露出して錆びた鉄筋が見えていたのだった。最近グーグルアースでマーシャル諸島を訪れ、エニウェトク環礁に行き、ルニット島やこの座礁船を上空から眺めている。



この船は全長110m余りある大きな船だ。そして高いところから見ると、Japtan島とMedren島の間の青い航路を外れた浅瀬に座礁しているようだ。
コミュニティでは、この船は核実験の評価に使われたらしい・・・、とあるが定かなところは分からない。
またこの船の北にも船が沈んでいるとされる。







戦争中、日本でも鉄資源の不足からコンクリートの船が造られ、現在広島のある港では防波堤として第二の人生(?)を送っているらしいが、美しいラグーンに残されたこの船は防波堤にもなっていない。

水中では魚達の家にはなっているかも知れないが、砂浜の残骸同様に、海面に残された不気味な鉄筋コンクリート、異文化の残骸である。

2006/11/08

No.19 On The Day フェードアウト



コンクリート表面に30cmほどまで接近し、隣り合い重なり合いを見ながら接写(撮影)する。

当然カメラを持つ中ハシは腰を折り、膝を曲げ、あるいは膝をつき、カメラと表面の距離を調整しシャッターを切る。
平均7秒に1枚。 チョークで仕切られた1グリッドを36枚で撮り。 140のグリッドを撮り続けること12時間。


日の出から日没まで その日のドームのコンクリート表面を通して その日のフェードインとフェードアウトを接写して・・・ 枚数は5000枚を超える。

それがオンザデイ・プロジェクト その日その場所での活動。



日没が近づく。残りのグリッドは数えるほどだ。 体力と気力を奮い立たせてフィニッシュに向かう。


心持ち、中ハシの腰が上がった!



140の番号が付けられたグリッドを接写する。

思わず男同士ハグする!




ルニットのOnTheDayがフェードアウト・・・・

No.18 On The Day クライマックス


かがんだ姿勢で12時間、接写を続ける事の疲労というか苦痛は想像するだけにしたい、と私は思う!。
計算上では7秒で1枚のペースで接写する事になっていたが、1秒あるいは数秒の接写時間の短縮を重ねて、数分間の休みを稼ぎ出す事を計画していた。 それは水分補給だったり、腰のストレッチだったり、栄養補給だったりする。

特に重要なのは緊張感の維持・持続だ!。 

フィルム詰め替え担当の私は、合計143回あるいは144回の交換をした。
正常だと140回のはずだったのだが、3~4回のフィルム詰めが失敗したのだった。
今ではフィルム装填もほぼ自動だが、このカメラはフィルム上下の穴(パーフォレーション)と巻き上げのギアを正しく噛み合わせて空巻きする必要があった。
単純な作業なのだが、緊張の維持の難しさを体感した。



陽が上がると雲も無くなり、空は太陽の一人舞台で強い陽差しを降り注ぐ。

3月1日、日本では初春だが真夏の陽射しだ。

1グリッドを36枚、約5分で接写して、カメラを換えて次のグリッドへ・・・それを積み重ねて、もうすぐ中央のプレートに近づいてくる。

・・・陽も真上にかかり、中ハシ自身の影が真下のグリッドに落ちてくる。



そこに、エニウェトクから同行した二人が登って来た。
手には刀のようなナイフ(?)を持ち、ブッシュをなぎ倒して・・・われわれの昼食を持って来てくれたのだった。パノラマを眺めていたが、何か落ち着きが無い。

昼食を置いて会話するでなく、下へ降りていった。 やはり彼らには、ここは「ポイズン」の上なのだろうか!?


稼いだ時間と予定の時間も入れて、昼食をとる。メニューは、やはりお米のご飯と魚!。ここから良く見える、あのラクロスGroundZEROで獲れた、あの魚だ!


ドームはコンクリートプレートを組み合わせで出来ていた。厚さは45cmだと言われている。中央の14角形を中心に亀の甲羅のように見えるが、台形のプレートが同心円状に並べられ、それぞれにアルファベットとナンバーが振られている。中心のすぐ外に「K」が書かれていた。一番外側、下の縁が「A」だとすると11の周があるのだろうか?。



番号以外にも「SINASANA」と読めるサインがあったり、以前は赤かったと思われる黒ずんだ円など、さまざまな印がある。
表面には滑り止めだろうか、引っかいたような細かな溝が切ってあり、歩き回った私の靴はボロボロになってしまった。

No.17 On The Day フェードイン


1954年3月1日、ビキニ環礁で史上最大(ヒロシマの1000倍:15Mt)の水爆実験が行われた日。 2004年の3月1日は50年目の「ビキニデイ」だ。
日本でもマーシャルでも記念の行事が計画されているその日に、私たちはルニットドームに登り、夜明けを待った。
東の空が白みはじめる、日の出、第一グリッドに中ハシが向かう。静かにOnTheDay Projectの作品創りがはじまる。

中ハシが持つカメラはマクロレンズを付けたマニュアルの1眼レフ。フォーカスリングはテープでグルグルに巻いて原寸接写に固定され、シャッターも絞りも同様に固定されている。使うフィルムは36枚撮りのネガカラーフィルムで、2台のカメラを交互に使う。 アシストは二人。 1人は前日のチョークの線やテープなど掃除する接写のアシスト。私はカメラのフィルム詰め替えを担当する。

中ハシは全く操作できないこのカメラを持ち、腰を曲げてピントを合わせ、繋がりを見ながら接写をはじめた。 その日の入り口:フェードインを捉えはじめた。



赤道近くの陽は昇るのが早い!。
斜光を受けたドーム表面は滑り止めのような溝が強調されていたが、あっという間に陽は昇り、上からの強い光を受けてコンクリートの色が白く変わる。



日差しは強いがドーム頂上のパノラマでは風も強く心地良い。しかし、それと同時に雲も活動を始め、青い空に替わって黒い雲がやって来たかと思うと、またすぐにどこかに消えて行く。

陽はどんどん高く、強くなるが、まだ始まったばかり。 フェードインして間もないが、もう写っているのはホワイトアウトした画像だろうか・・・!

目まぐるしい生き物のような地球のへその気象の下で、中ハシは接写を続ける。 腰を伸ばし、ひざを曲げ、また腰を曲げながら・・・・

中ハシの後ろには、ラクロス実験でできたクレーター(魚を獲った)Ground ZEROの濃い青が見える。

2006/11/03

No.16 On the Day Eve、イブの食卓と夜


キャンプは同行した3人がテーブルやカマド、椅子代わりの石まで並べて設営していた。
夕飯も彼らが、米のご飯と、おかずは茹でた魚とから揚げの魚を用意してくれた。
「この魚は?」・・・海で獲った!・・・!!??


われわれがドームで準備をしている間に彼らは、その横100mにあるラクロス実験のクレーターの海でこの魚を獲った・・・!。核実験のクレーター:GroundZERO!しかもドームの底からは海へ放射性物質が漏れているとも言われる、その海で!・・・。

われわれは顔を見合わせた!!
「しょうがないか!:これもゼロプロジェクト!?」
・・・・ でも美味しかった。


食後、彼らは枝を利用してブルーシートの大きな屋根を用意してた。
われわれはその横にテントを張った。
片づけが終わり彼らは立ち木を使って上手にブルーシートで囲った空間を作る。いよいよおやすみの準備!

陽がラグーンの海に沈み西の空に星が輝き出した。さらにその上には月も輝いていた。しかし、その星も月も、日本で見る物とは全く別物だ!。
コバルト色のカーテンが下りて、月はますます輝いている。私は決心した。今日は外の砂の上で眠ると!!

2人はテントで、私はテント横の砂の上にシュラフを広げ横になる。
いつの間にか風は収まっていた。
仰向けに見上げるルニットの夜空。月は夜を明るく照らしていたが、空は星が埋めている。
点を結ぶ線は無限!。面でしか見たことの無い天の川も点が作っている
・・・見たことの無い数の星を楽しんで・・・・・・zzz

ギャー・ギャーという声で目が覚めた。

鳥の声だ。

月も無くなっていた。枕元に置いたLEDライトを上空に向ける。
白い物が横切る、すぐ上を飛んでいるように見えた。
鳥の声も無くなり改めて空を見る。・・・・・そこは・・ソコハ・・其処は!
月の無い夜空はこれまで経験した事の無い「星☆星☆☆!」。
夢ではなかった! なんと言って良いのだろうか・・・

貧困なボキャブラリで考える・・結論
宇宙遊泳しているようだ!・・と。
もちろん私は地球から出たことはない!

2006/11/02

No.15 On the Day Eve、その日の準備


「ブラボー」と名付けられた史上最大の水爆実験は、1954年3月1日ビキニ環礁で行われた。 第五福竜丸はじめマーシャルや世界に放射能被害を拡散したその実験から50年後のその日、2004年3月1日がOnTheDayである。
その事件と歴史の象徴として、マーシャルに造られた核実験の遺物であるルニット・ドームを捉える。前日の今日は、その日の準備だ!。

中ハシ克シゲがその日に何をするかと言えば、カメラを手持ちで、露出(絞り・シャッター)もピントも固定して、ファインダーを覗き、つながりを確認し、カメラを上下(腰を折って)させてピントを合わせながら12時間、彼の体力・気力も映しつつ、日の出から日没までドームのコンクリート表面を「接写」するのである。

撮影範囲は頂上部を南北に約3m×15m、それを4×36、合計144に分けたグリッドそれぞれを36枚撮りフィルム1本で撮影する。 合計5000枚以上、サービスプリントを繋ぐと、原寸のドーム表面が再現される。今日はチョークやテープでグリッドを引き、番号を振り、あした、その日:OnTheDayの準備をしてキャンプへ戻る。

砂浜に自分たちだけの往復の足跡が交錯するところ、砂浜にカニがいた。どうやら私たちの通った近くに彼の家があったようだ、砂浜を歩く私たちの足が彼の平和を乱してしまったようだ。
カニだけでなく、木々も茂り鳥も多く飛んでいて表面的には何事もない青い空と蒼い海に囲まれた大自然の無人島の光景だが、「危険・立ち入り禁止」の看板が物語るように、見えない何かを感じさせる。ここで繰り返されてきた歴史と事実を知り、目的のコンクリートドームにも対面しているからでもあるが、茂ってはいるが全体に背の低い木々は若さを現すものだし、鳥やカニにはこの核廃棄物の島で世代を重ねてきたという目で見てしまう。もちろん鳥もカニも外見は普通のカニであり鳥である。

ただ、エニウェトクに来て目立つコンクリートの残骸は、人の生活の気配のない無人島のルニットでは違って見えた。
キャンプとドームの間、われわれが往復した砂浜に半分埋もれたコンクリートの残骸。ある文明の残骸のように見えてしまう。
あのチャールトン・ヘストン演じたテイラーが見た砂に埋もれた自由の女神像のように・・・・
聞くところによるとドームの底からは、海へ放射性物質が漏れ出しているという話を聞く。
・・・・・見えない恐怖はつづく・・・・・

No.14 ルニットドーム初見


海から目視できると思っていたが、思ったより木が育っていてドームの姿は見えなかった。生い茂った木のような草をかき分け、案内人の後を付いて行くと、突然目の前にそれは現れた。 「スゴイ!」が第一印象!。
7.5mとは思えない見上げる高さだった。

シーリングが気になったが、コンクリートの継ぎ目からは植物も生えていたし、地上から生えたツルの植物がコンクリートを這い上がっていたが、その葉色が蛍光を帯びているような感じの黄緑だったのが印象的だった。
登りの傾斜も思いの他きつい!。
頂上に立つと360度パノラマ。風が気持ち良い。頂上プレートには「6 SEP 79」とある、完成は1979年9月6日だ。

直径110m高さ7.5mの巨大なコンクリートドーム。その全体を撮ろうとして周囲を歩く。ルニット島の一番幅のある所に造られているが、ほとんど引く(離れる)事ができず、すぐ後ろは珊瑚礁の海で、ドームは島の幅一杯だ。
持ってきたデジカメと広角ズームレンズ(15-30mm)では到底収まらない。ズーム比を変えて分割撮影する。これらは、つなぎ合わせてパノラマにする。


空と海とが視野のほとんどを占める大自然の中で、ドームの縁から見ると巨大なコンクリートドームが視野のほとんどを占める。そしてそれは、強い風によって移動する雲が太陽の光を変化させて、コンクリート地肌は白に近くなったり、濃いグレイになったり、頻繁にその表情を変える。

大自然の中の人工構造物!!異質で異様な光景だ。しかし核のゴミを集め固めた恐ろしい「ポイズン」を収めた物であるにもかかわらず、何か得体の知れない美しさもある。
不思議な光景・空間である。

2006/11/01

No.13 ポイズンの島ルニットへ



2月26日にエニウェトクに来てから何度も歩いたラグーン沿いの道、その道の北端から一本の桟橋が海に突き出ている。 この桟橋が指す美しい透明ブルーのグラデーションの海の向こうで、かつて核実験が行われて来た。

周囲80kmのこの環礁の北部が実験場だった。 ここで43回の大気圏内核実験が行われ、その後島民の帰島のため、降り積もった放射性降下物を島の土とともに削り取り、実験区域の東側ルニット島のクレーターに集めてコンクリートで封印した。

しかし40ある環礁の島で、使えるのはエニウェトク島と隣の二つの島に限られ、島の機能をつなぐ環礁の生活システムは戻る事が無かった。
島の生活を破壊し彼等が嫌う放射能汚染「ポイズン」は、四半世紀経った現在も彼らを拒否しながら、彼らと同居している。ルニットは立ち入り禁止のポイズンの島だ。
*実験写真:Redwing_Seminole_test(wikipediaより) 写真右上の雲に隠れてルニット島が見える


2004年、閏年の2月29日朝、エニウェトク唯一のコンクリート・スロープの浜から、船外エンジンつきボートがラグーンに降ろされた。いよいよルニット島へ出発だ。乗り込んだのは、エニウェトク自治政府で「ルニット訪問のリスクを了承する」という契約書にサインした中ハシはじめ3名と同行する警官2名、案内人1名の計6名。 そして100リットル分の飲料水、荷物は総て防水梱包して積み込んだ。

「リスクを理解して責任は問わない」という、サインしたあの書類が目に浮かぶが、動き始めた水面を眺めると、そんな不安は消え失せる。 太陽の光を受けた透明な水は、底との間でプルシアンやターコイズそしてエメラルド・ブルーとグリーンの間を無段階に変化するのだ!。


そんなラグーンを30分、幾つかの島を過ぎて浜にコンクリートの残骸を見つけた。・・・ルニット島だ!。

キャンプ場所を探し、ドーム手前の浜に上陸したが、そこは「危険・立ち入り禁止」と上陸を拒否する看板がある、美しい砂浜だった。

No.12 エニウェトクをGoogleEarthで鳥瞰する


エニウェトク島をGoogle Earthを使って空から見る。

左上が内海:ラグーン、右下が外洋:オーシャンで、波の違いが良く分る。
オーシャンサイドでは珊瑚礁の浅い海のエッヂで波がぶつかり白く縁取っている。
エニウェトク島は南西から北東に弧を描くようにキュウリの様な形をしていて、ラグーン側に一本道が走っている。



特に目立つのが滑走路だ。測ると4kmの島の半分以上の2.5kmあった。
そして島の道を歩くと単純に木々が豊かに茂っているように見えたが、Google Earthで高度を下げて見ると、例のコンクリート住宅とそれを囲む規則的な点が見える。その点が樹木だ!。
地上では分からなかったが、等間隔で明らかに植林された事が分かる。
エニウェトクでは核実験終了後に島民が戻るために地表の土壌を削り取り、新たに土を運ぶという島の浄化作業が行われたが、その結果の植林だろうか・・・。



島の幅は太いところで400m、細いところで70mほどだ。 この島の北側(右上)にDOE施設があり、私たちはそこに滞在していた。

No.11 エニウェトク散歩-2


島の中央、外洋側:オーシャンサイドにENEWETAK Elementary Schoolがある。 白い校舎のバックは青い空、蒼い海、南の国のコントラストだ!。
授業が終わった午後、出かけると、物珍しさからか・・・取り囲まれる。

ビデオカメラを向けると液晶モニターを覗く子供、レンズの前に立ちパフォーマンスをはじ める子供、その順番を待つ子供、カメラ側で喝采する子供・・・一挙に子供の世界が出来上がる。

上級生の子供には拙い英語で質問を投げると、しっかりした英語で返事を、そして自分や家族の事を話しはじめる。
核実験が始まる前、ウジェラン環礁へ移住した話、そしてかつて日本統治下で教育を受けたお爺さんは日本語を話す・・など、自分たちの歴史もしっかりと学んでいるようである。


日本語を話すお爺さんを紹介してくれると言うので出かける。
メインストリートを南に歩くこと10分ほど、木立に囲まれた庭でくつろぐ家族がいた。
お爺さんは90歳ぐらい?!だとすると30歳ぐらいで太平洋戦争を体験。それまでは日本統治下の社会で育ってきたはずだ。もしかしたらドイツ時代も記憶しているかも・・・。
だが残念ながら耳が遠くなっていて、コミュニケーションがなかなか取れない。 彼は米軍に撃たれたのだと、足首の傷跡を見せる。日本統治下で仕事は何をしていたのだろうか?(日本占領・委任統治:1914-1944、1944米軍占領、1947から米信託統治、1948から核実験)




日本統治の社会で育った彼には、銃で撃たれ、核実験のため強制移住させられたアメリカよりも日本との歴史が懐かしいのだろうか?。日本からやってきた我々への気遣いなのかも知れないが・・・、日本へは好印象を持っているようだ。
日本人にとっては嬉しいが、彼が青春の20-30`s、日本が近かったそこが彼の故郷なのかも知れない。

文化と文明の交差点を彼に見た。

No.10 エニウェトク散歩-1


南北に長さ4km、幅100mほどの島。到着した日、南端の滑走路からの一本道を走るトラックの荷台からは、古い二階建てのオール(屋根まで)コンクリート住宅が建っているのが見えた。数えていないが、相当数あるようだ。



おそらく米軍の実験関係者の住宅だったのだろう、中には廃墟もあるが今でも住まいに使われているものもある。



家々の前には必ず「Agricalture」と書かれた農業用の雨水容器が置かれ、島の水事情が推察できる。

散歩で歩く道では、島の人達と顔を合わすと、例外なく皆が手を上げて挨拶する。



3~40分も歩くと到着した滑走路に着くが、いつの間にか好奇心旺盛な少年が我々と一緒に歩いていた。この島のコミュニティでは日本人がやって来ているのは、子供たちにも周知のようだ。


島には坂道など無い、あるとしたら海へのスロープぐらいで全く平ら!。海抜は2mもない。建物でも二階建て以上は米軍の残したコンクリート住宅や使われていない貯蔵タンク、そして教会ぐらい、その他は平屋である。




学校から少し南に歩くと林の中に大きな三角形があった。大きな屋根だけを置いたような建物の残骸である。どうやら教会のようだった。
今の教会が建つ前に使われていたもののようだが、しっかりしたコンクリートの基礎の上に太い屋根材が風雨にさらされ朽ちていた。島を歩くと至る所に鉄筋コンクリートの残骸が残っている。特に海岸に多く残されているが、オーシャンサイドの浜に埋もれた黒くなったコンクリートと砂とのコントラストは、不気味で不釣合いだ。どの時代の遺物なのだろうか?こんな所でもこの国の歴史を感じさせる。




Photo and Text by nnogci